湊の街 史跡・歌碑巡り
tt H.28年5月16日(月)t
曇り晴れ 気温 20℃1
16日は那珂湊の史跡、歌碑を巡ってきました。 |
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まず地元のお稲荷さんをお参りして、 |
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湊八景 峯山の晴嵐 雲さそう嵐も晴れて峯の山 遠かたちかきあしは筑波嶺 碑は国道245号関戸交差点を峯後方面に少し入った左側にあります。 かつては,松竹が茂り「入る矢も通らぬ…」といわれるほどでしたが, |
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水車場跡(すいしゃばあと) 中丸川の下流右岸,那珂川と合流する近くに所在します。 水車場は,水車の力を利用し,反射炉で鋳造された円柱状の砲身を内刳(うちぐり)して穴を開け, 仕上げを行っていた施設です。 安政2年(1855)に大工棟梁飛田与七の設計により着工し,翌年に完成しましたが, 元治甲子の乱(1864)で焼失してしまいました。 |
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湊八景 関戸の夕照 山の端に入る日の影のとりやらぬ関戸に照らす夕暮の雲 碑は国道24 5号線の那珂川に懸かる湊大橋のたもとの 関戸橋(昭和3年竣工)の架橋以前は「関戸の渡し」があり, |
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ひたちなか海浜鉄道阿字ヶ浦駅から 海岸へ降り、磯崎漁港寄りの阿字ヶ浦海岸に 茨城百景阿字ヶ浦の碑(いばらきひゃっけいあじがうらのひ) と 万葉歌碑 (まんようかひ) があります。 「磐城山(いはきやま)直(ただ)越え来ませ磯崎(いそざき)の許奴美(こぬみ)の浜にわれ立ち待たむ」 今回は残念ながら堤防工事のため見ることができませんでした。 |
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比観亭跡にある句碑(ひかんていあとにあるくひ) 寛政2年(1790年)水戸6代藩主徳川治保(はるもり)は,この地を訪れあずまやを建てさせ,「比観亭」と名づけた。 現在,比観亭跡地付近に五世夜雪庵(ごせいやせつあん)金羅の句碑がある。 比観亭跡についてPDF |
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酒列磯前神社(さかつらいそざきじんじゃ) 御社殿はかつては現在の第一鳥居付近(ひたちなか市史跡-「比観亭跡」)に鎮座していましたが、 水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄年間御造営の計を起し、 3代綱條公が現在地に遷座再興されました。 現在の社殿は国費を持って昭和12年に改築竣工し、 拝殿に施された「リスとブドウ」の彫刻は日光東照宮御造営後の左甚五郎の作と伝わっています。 ひたちなか観光協会 史跡・名勝・資料館より 酒列磯前神社についてPDF |
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酒列磯前神社をあとにしてホテル白亜紀を左に見て、海岸へ降りていきます。 中生代白亜紀層、畜生岩を過ぎ右に上ると、「観涛所の碑」があります。
ひたちなか観光協会 史跡・名勝・資料館より 中生代白亜紀層について |
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観涛所の碑(かんとうじょのひ) 水戸藩の彫金家,海野美盛が刀の鍔に「浪に千鳥の図」を彫刻。 これを見た徳川斉昭が現地に出かけ,景観を激賞し,この地を「観濤所」と命名。 自ら親書したものを刻み建碑した。 篆書で「観濤所」と書いてある。 観濤所についてPDF |
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清浄石の碑 (せいじょうせきのひ) 清浄石は,水戸二代藩主徳川光圀が命名したもので, 俗に護摩壇石(ごまだんいし)ともいわれるのは,その形が護摩壇に似ているためである。 水産試験場浅海増殖部前にあります。 |
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網のし唄の碑(あみのしうたのひ) 表に網のし唄の歌詞が,裏には網のし唄の起源についての説明文がある。 「網のし唄 ヨーイノセ ヨーイノセ のせやのせのせ 大目の目のし のせばのすほど アレサめがしまる ヨーイノセ ヨーイノセ」 平磯バス折り返し地点にあります。 |
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心地よい風に吹かれながら那珂湊方面へ向かいます。 茨城百景平磯海水浴場の碑(いばらきひゃっけいひらいそかいすいよくじょうのひ) 昭和25年に決定。 |
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中村彝静養之地の碑(なかむらつねせいようのちのひ) 平磯 鯨の由来 中村彝静養之地の碑とともにあります。 |
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姥の懐海水浴場前にあります。 茨城百景那珂湊海水浴場の碑(いばらきひゃっけいなかみなとかいすいよくじょうのひ) 水戸光圀の句碑(みとみつくにのくひ)
国木田独歩記念碑(くにきだどっぽきねんひ)
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那珂湊天満宮と御旅所の由来の碑(なかみなとてんまんぐうとおたびしょのゆらいのひ) 那珂湊天満宮の由来と御神輿の御旅所を説明したもの。 http://minatotanaka.web.fc2.com/ |
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修祠記(しゅうしき) 題字:小川芋銭,碑文:書小杉放庵。 那珂湊牛久保にある漁運稲荷神社境内に建っている「修祠記」の題額は,小川芋銭の書である。 芋銭は,明治元年東京赤坂溜池に生まれる。明治4年父母と共に茨城県牛久に移り農業に従事した。 身体があまり丈夫でないため11歳のとき上京,丁稚奉公をしながら勉強し, 明治13年,本多契山に洋画を,一隠抱朴斎に漢画を学び,生来の画才は,このころから磨きがかかった。 河童の画は独得のもので「かっぱの芋銭」ともてはやされた。 碑文の内容 : 常州那珂湊之北有地稱牛久保前面東海岩礁環焉長涛翻焉風帆遠近魚蝦豊冨也此地・・・・・ 魚運稲荷神社境内(牛久保町集会場)にあります。 |
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水門帰帆の碑(みなとのきはんのひ)
藤田東湖の詩碑(ふじたとうこのしひ)
湊八景 和田の帰帆 「沖津波立ちさわらまし真帆引いて和田の汀によする釣舟」
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橿原神宮(かしはらじんぐう)
那珂湊天満宮御祭禮(なかみなとてんまんぐうごさいれい)が行われています。 http://minatotanaka.web.fc2.com/ |
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湊八景 富士坂の暮雪
「ころ不二も駿河の冨士も冨士坂道ふみ迷ふ雪の夕暮」
湊八景 新堤の落雁 「新つつみ清き堀江にすまんとや珍らかそうに落るかりかね」
湊八景 館山の晩鐘 人相のかねの音遠く館山の響に彼の花やちるらん
湊八景 八幡の夜雨 「みとりなる色も黒みてやはた松いく夜ふりぬる春の霖雨」
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天満宮(てんまんぐう) 天満宮は、菅原道真公を奉斎した神社で、今から700余年前の鎌倉時代、会場に種々の奇瑞が現われ、 神託を乞うや、道真公の神霊が、この地に降ったとのことであった。 時の領主は、北野山満福寺泉蔵院を創建して守護させ、神領として二十五貫文の地を寄せられた。 それ以来、住民の信仰が篤く、南北朝時代の頃には、神前で大般若経の転読が催された記録が見える。 神仏混淆の時代には、久しく仏像を安置しておいた。 時が移り江戸時代になると、第二徳川光圀公は、元禄年中に寺社改革(神仏分離)を行い、 家臣東條常言に命じて、菅公の御神像を造らせ、神宝を添えて遷官の式を行わせた。 また祭礼の式も改め、社職を泉蔵院別当から柏原明神(現在の橿原神宮)の社守鈴木長門に命じた。 㡀来、歴代の藩主は、とくに天満宮を尊崇し、祭礼の式は幾度か改められ、数百年を経た現在も伝承されている。 昭和五十八年五月 天満宮宮司 井上 義 湊町道路元標(みなとまちどうろもとひょう) 湊本町郵便局前にあります。 金龍水松影ノ井戸(こんりゅうすいまつかげのいど) 夤賓閣跡の碑(いひんかくあとのひ)
湊八景 日和山の秋月 「秋の夜のみちかにあらぬ日和山磯うつ波にうつる月影」
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遭難漁民追薦之碑 (そうなんぎょみんついぜんのひ)
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反射鑪遺址碑(はんしゃろいしひ)
山上門建設之由来の碑(さんじょうもんけんせつのゆらいのひ)
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