湊の街 史跡・歌碑巡り

tt        H.28年5月16日(月)

        曇り晴れ 気温 20℃1
                          
       


   



16日は那珂湊の史跡、歌碑を巡ってきました。

地元に生まれ60年になりますが、まだまだ行ったことのない所がありました。

水戸街道や陸前浜街道、日光街道など旧街道を歩いていますが、

那珂湊の「湊八景」や「歌碑」には国木田独歩や与謝野晶子、水戸光國などが歌った碑、

水戸斉昭や小川芋銭などの直筆の書が残り、素晴らしい景色は旧五街道にもひけをとらないと思います。

整備、広報してたくさんの皆さんに見ていただきたいと想いを強くした一日でした。

湊八景は,撰者不明ながら事蹟雑纂巻二十三に宝暦十三年(西暦1763年)の記述があることから,

斉昭による水戸八景撰定よりも以前から知られていたことが分かっています。

その撰定地も文献により異なるため、幾種類かの八景が知られています。

昭和58年に当時の那珂湊市教育委員会によって,水戸那珂湊絵図を参考に石碑が建立されました。

今回は,ひたちなか市教育委員会より出されている「ひたちなか市八景めぐり」

ひたちなか市役所HP内「歌碑・記念碑を訪ねて」を参考にしました。




まず地元のお稲荷さんをお参りして、

   



湊八景  峯山の晴嵐

雲さそう嵐も晴れて峯の山 遠かたちかきあしは筑波嶺

碑は国道245号関戸交差点を峯後方面に少し入った左側にあります。

かつては,松竹が茂り「入る矢も通らぬ…」といわれるほどでしたが,

今は周りは削られ小さな小高い丘となっており,

山頂に三峰神社が祀られています。

   

水車場跡(すいしゃばあと)


中丸川の下流右岸,那珂川と合流する近くに所在します。

水車場は,水車の力を利用し,反射炉で鋳造された円柱状の砲身を内刳(うちぐり)して穴を開け,

仕上げを行っていた施設です。

安政2年(1855)に大工棟梁飛田与七の設計により着工し,翌年に完成しましたが,

元治甲子の乱(1864)で焼失してしまいました。

   


 

湊八景  関戸の夕照

山の端に入る日の影のとりやらぬ関戸に照らす夕暮の雲

碑は国道24 5号線の那珂川に懸かる湊大橋のたもとの

関戸水神宮の境内にあります。

関戸橋(昭和3年竣工)の架橋以前は「関戸の渡し」があり,

対岸の地を結ぶ渡船場がありました。


 
 



ひたちなか海浜鉄道阿字ヶ浦駅から


  

海岸へ降り、磯崎漁港寄りの阿字ヶ浦海岸に

茨城百景阿字ヶ浦の碑(いばらきひゃっけいあじがうらのひ

万葉歌碑 (まんようかひ) があります。

「磐城山(いはきやま)直(ただ)越え来ませ磯崎(いそざき)の許奴美(こぬみ)の浜にわれ立ち待たむ」


今回は残念ながら堤防工事のため見ることができませんでした。

  





比観亭跡にある句碑(ひかんていあとにあるくひ)
 


寛政2年(1790年)水戸6代藩主徳川治保(はるもり)は,この地を訪れあずまやを建てさせ,「比観亭」と名づけた。

現在,比観亭跡地付近に五世夜雪庵(ごせいやせつあん)金羅の句碑がある。



    

  比観亭跡についてPDF


酒列磯前神社(さかつらいそざきじんじゃ)


御社殿はかつては現在の第一鳥居付近(ひたちなか市史跡-「比観亭跡」)に鎮座していましたが、

水戸藩2代藩主徳川光圀公が由緒深い名社の荒廃を嘆き元禄年間御造営の計を起し、

3代綱條公が現在地に遷座再興されました。

現在の社殿は国費を持って昭和12年に改築竣工し、

拝殿に施された「リスとブドウ」の彫刻は日光東照宮御造営後の左甚五郎の作と伝わっています。

  

   ひたちなか観光協会 史跡・名勝・資料館より


  酒列磯前神社についてPDF


酒列磯前神社をあとにしてホテル白亜紀を左に見て、海岸へ降りていきます。

中生代白亜紀層、畜生岩を過ぎ右に上ると、「観涛所の碑」があります。

  


畜生岩:

那珂湊層群は基本的にほぼ北傾斜であるのに対し

畜生岩と呼ばれる場所だけ南に傾斜している。



   ひたちなか観光協会 史跡・名勝・資料館より


   中生代白亜紀層について

















観涛所の碑(かんとうじょのひ)

水戸藩の彫金家,海野美盛が刀の鍔に「浪に千鳥の図」を彫刻。

これを見た徳川斉昭が現地に出かけ,景観を激賞し,この地を「観濤所」と命名。

自ら親書したものを刻み建碑した。

篆書で「観濤所」と書いてある。


 



  観濤所についてPDF



清浄石の碑 (せいじょうせきのひ)


清浄石は,水戸二代藩主徳川光圀が命名したもので,

俗に護摩壇石(ごまだんいし)ともいわれるのは,その形が護摩壇に似ているためである。

 

水産試験場浅海増殖部前にあります。


網のし唄の碑(あみのしうたのひ)

 
        

表に網のし唄の歌詞が,裏には網のし唄の起源についての説明文がある。

「網のし唄 ヨーイノセ ヨーイノセ のせやのせのせ 大目の目のし 

 のせばのすほど アレサめがしまる ヨーイノセ ヨーイノセ」


平磯バス折り返し地点にあります。



心地よい風に吹かれながら那珂湊方面へ向かいます。

茨城百景平磯海水浴場の碑(いばらきひゃっけいひらいそかいすいよくじょうのひ)



昭和25年に決定。








中村彝静養之地の碑(なかむらつねせいようのちのひ)





平磯 鯨の由来



中村彝静養之地の碑とともにあります。

姥の懐海水浴場前にあります。








茨城百景那珂湊海水浴場の碑(いばらきひゃっけいなかみなとかいすいよくじょうのひ)





水戸光圀の句碑(みとみつくにのくひ)


光圀の歌

「とりあげて見ればやさしき子安貝乳房たつねよ姥の懐」

の碑。


国木田独歩記念碑(くにきだどっぽきねんひ)




小説「渚」の一節

「挙げて永劫の海に落ちゆく世々代々の人生の流の一支流が僕の前に横たわっているのである 独歩」
が刻まれた碑。

国木田独歩は,明治4年千葉県銚子に生まれる。
浪漫主義的立場をとり,
後自然主義的な立場によって数々の作品を書いた。
詩集「独歩吟」,小説「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」「酒井日記」等々。
明治40年9月3日那珂湊牛久保杉田雨人別荘に赴いて病を養った。
文芸倶楽部より発表した「渚」には牛久保付近を描写した次の文がある。

「今日太陽が落ちかかってから散歩に出た。
断崖の上の孤屋を出ると野は淋しい。
家の前の村道は一人一人通らない・・・・
生きるか死ぬか解らない病人が
一人ぶらぶらと此野末を歩いて居る。それが僕だ。・・・・・」






那珂湊天満宮と御旅所の由来の碑(なかみなとてんまんぐうとおたびしょのゆらいのひ)

那珂湊天満宮の由来と御神輿の御旅所を説明したもの。



http://minatotanaka.web.fc2.com/








修祠記(しゅうしき)




題字:小川芋銭,碑文:書小杉放庵。

那珂湊牛久保にある漁運稲荷神社境内に建っている「修祠記」の題額は,小川芋銭の書である。

芋銭は,明治元年東京赤坂溜池に生まれる。明治4年父母と共に茨城県牛久に移り農業に従事した。

身体があまり丈夫でないため11歳のとき上京,丁稚奉公をしながら勉強し,

明治13年,本多契山に洋画を,一隠抱朴斎に漢画を学び,生来の画才は,このころから磨きがかかった。

河童の画は独得のもので「かっぱの芋銭」ともてはやされた。


碑文の内容 : 常州那珂湊之北有地稱牛久保前面東海岩礁環焉長涛翻焉風帆遠近魚蝦豊冨也此地・・・・・

魚運稲荷神社境内(牛久保町集会場)にあります。


水門帰帆の碑(みなとのきはんのひ)



天保4年(1833年)徳川斉昭(烈公)が選んだ水戸八景のひとつ。

東に洋々たる太平洋,南に鹿島灘,西に筑波山,

そして,遠くに日光の連山を眺望する絶好の場所にあり,

すぐ真下は,明治時代まで,

那珂川の川口で真帆片帆の出船入船を見ることができた。
水門帰帆の碑は天保5年に,

徳川斉昭が隷書体で「水門帰帆(帆は馬偏に風)」の文字を大書し,

寒水石に刻み建碑したもの。

写真の右側が水門帰帆の碑,左側は藤田東湖の詩碑



藤田東湖の詩碑(ふじたとうこのしひ)




水門帰帆の碑のとなりにある七言絶句。

「遠望誰弁雲邪鳥 但見霏凝映落暉 一陣東風水門夕 吹成千片布帆帰」


湊八景  和田の帰帆

「沖津波立ちさわらまし真帆引いて和田の汀によする釣舟」


碑は那珂湊総合支所正門の左側路地を進み,

突き当たりを右手に進んだ所にあります。

この地は水戸ハ景「水門帰帆」の選地としても有名な景勝地で,

建碑された当時は,

眼下に港や那珂川河口を行き交う帆船で

賑わう光景が見られたそうです。




橿原神宮(かしはらじんぐう)


神武天皇・桓武天皇・崇道天皇を奉斎した社で、奈良時代の和銅年中に創建したといわれ、
室町時代の仁寿年中になって石崎村升原(茨城町中石崎)から、湊村の宮山町(明神町)に奉遷した。 
延長5年頃は柏原大明神と称して、この地方の布施・鈴木家などを中心とした平氏一族の守護神となっていた。
その後、社名を橿原神宮と改め、湊村の鎮守として尊崇されるようになった。
宮山町にあった社殿は、江戸時代の寛文12年(1672)に炎上し、同年8月17日、富士ノ上地内に遷した。
今日までに約300年の歳月が経過している。
ご祭神は、神武東征や蝦夷征討などの故事に因んで、多くの崇敬者から厄除けの神とあがめられている。

那珂湊天満宮御祭禮(なかみなとてんまんぐうごさいれい)が行われています。

http://minatotanaka.web.fc2.com/






湊八景 富士坂の暮雪

「ころ不二も駿河の冨士も冨士坂道ふみ迷ふ雪の夕暮」

碑は富士坂の途中,

那珂湊第二小学校へと向かう分岐点にあります。

しんしんと降り積もる雪が通りや畑の境界をも消し去り,

夕暮れの薄暗さも手伝ってか,慣れたみちでさえもまるで

別の地の景色を見ているような錯覚を感じたのかもしれません。

那珂湊第二小学校を過ぎ少し行ったところにある

富士見陸橋からは,空気が澄んでいるときは

いまでも富士山が見えるそうです。


湊八景  新堤の落雁

「新つつみ清き堀江にすまんとや珍らかそうに落るかりかね」

碑は新堤の養護老人ホーム北勝園みなと館の敷地内にあります。

新堤は溜池の名称ですが,この近辺の地名でもあります。

この地は眼前に水田が広がり,

昔は雁の群れが羽を休めに降り立つ光景が見られたのでしょう。

今でも溜池には,羽を休める数種類の水鳥が確認できます。


湊八景  館山の晩鐘

人相のかねの音遠く館山の響に彼の花やちるらん

碑は館山七か寺の一つ浄光寺山門の左側にあります。

光圀の社寺改革により元禄9年この地に

浄光寺が釈迦町から移されました。

この時光圀から浄光寺に光圀の銘を彫った鐘を寄付されました。

その後外国船が海上に見え隠れする時代となり,

海防を重要視した藩主斉昭(烈公)は

大砲鋳造のため反射炉をつくり,

この鐘も大砲の鋳造のため溶かされてしまいました。

遠く聞こえる鐘の音が,ゆっくり静かに過ぎていく夕暮れ時に

溶け込んでいる風情が感じられます。



湊八景  八幡の夜雨

「みとりなる色も黒みてやはた松いく夜ふりぬる春の霖雨」

碑は八幡町のハ幡神社境内にあります。

鮮やかな緑の松も夜雨のせいで黒くなってしまい,

なかなか止まない雨を憂いでいる様子がうかがえます。

伝説では昔八幡太郎義家が奥州討伐の時戦勝を占うため,

松を逆さに植えたものが

やがて高さ5丈あまりの大木になった

といわれています。

枝葉が柳のように垂れ下がり,

これを「八幡の逆さ松」と呼び,

海上からは航行の目印として利用されてきました。

この松は明治358月の大風で倒れてしまいましたが,

現在根株が残されています。







天満宮
(てんまんぐう)

天満宮は、菅原道真公を奉斎した神社で、今から700余年前の鎌倉時代、会場に種々の奇瑞が現われ、
神託を乞うや、道真公の神霊が、この地に降ったとのことであった。
時の領主は、北野山満福寺泉蔵院を創建して守護させ、神領として二十五貫文の地を寄せられた。
それ以来、住民の信仰が篤く、南北朝時代の頃には、神前で大般若経の転読が催された記録が見える。
神仏混淆の時代には、久しく仏像を安置しておいた。
時が移り江戸時代になると、第二徳川光圀公は、元禄年中に寺社改革(神仏分離)を行い、
家臣東條常言に命じて、菅公の御神像を造らせ、神宝を添えて遷官の式を行わせた。
また祭礼の式も改め、社職を泉蔵院別当から柏原明神(現在の橿原神宮)の社守鈴木長門に命じた。
㡀来、歴代の藩主は、とくに天満宮を尊崇し、祭礼の式は幾度か改められ、数百年を経た現在も伝承されている。
               昭和五十八年五月 天満宮宮司 井上 義






湊町道路元標(みなとまちどうろもとひょう)

湊本町郵便局前にあります。




金龍水松影ノ井戸(こんりゅうすいまつかげのいど)



夤賓閣跡の碑(いひんかくあとのひ)


夤賓閣は,元禄11年(1698年)水戸2代藩主徳川光圀(みつくに)が

日和山(ひよりやま)といわれる台地に建てたもので,

湊別館,お浜御殿,湊御殿とも呼ばれていた水戸藩の別邸。

名称は中国の書「尭天(ぎょうてん)」の

「夤んで日の出るをみちびく(つつしんでひのいずるをみちびく)」

からとり,客待所,迎賓館の意味がある。

建物の建坪は300坪(約1,000平方メートル)で,28もの部屋が有り,

地形を利用した高低2段の構造だった。

光圀公,斉昭公など歴代藩主も度々訪れ,宴席や詩歌の会が催された。

建物は元治甲子の乱(1864年)で焼失。

園内には,徳川光圀が須磨明石より取り寄せた松の名木がある。

夤賓閣についてPDF




湊八景  日和山の秋月

 「秋の夜のみちかにあらぬ日和山磯うつ波にうつる月影」

碑は湊公園内の御殿山(=日和山)の頂きにあります

ここは水戸光圀の命により元禄10年(1697)に

建てられた「貴賓閣」のあった場所でもあり,

那珂川河口や太平洋が一望でき,

茨城百景の遠地にもなっている景勝地です。

秋夜の月が波間に映り

漂う美しい光景が眼下に広がります。






遭難漁民追薦之碑 (そうなんぎょみんついぜんのひ)


明治43年3月12日の暴風雪により漁船の大遭難事故が発生し,

那珂湊地方では船乗組員の死者・行方不明者が437名に達した。

横綱常陸山谷右衛門(水戸市出身)は,

栄町1丁目の華蔵院(けぞういん)境内にこの碑を建立した。







反射鑪遺址碑(はんしゃろいしひ)



江戸時代末期になると那珂湊沖などに異国船が出没するようになり、

水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が国防の必要性を強く唱え、

安政4年(1857)に造られた水戸藩営大砲鋳造に必要な大量の鉄を溶解する炉で、

オランダの技術に学んで2基建設されました。

ここで鋳造された大砲は28門以上で、各地の砲台へ据え付けられたり、幕末にも献納され、

大いに国防の役目を果たしました。

元治元年(1864)の騒乱で破壊されてしまいましたが、昭和12年に復元されました。


  反射炉跡についてPDF


碑文内容:

水戸烈公甞築反射炉于那珂湊吾妻台以鋳造大砲此地則為其遺址盖反射炉者所以熾烈火力鎔鉄製砲也而当時事属創始構造極難公特留意・・・








山上門建設之由来の碑(さんじょうもんけんせつのゆらいのひ)

山上門は,

元は水戸藩小石川邸にあった勅使奉迎(ちょくしほうげい)用の門。

幕末に活躍した佐久間象山,西郷隆盛などの

諸藩の志士たちもこの門をくぐったと伝えられている。



山上門についてPDF









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