栗橋宿から杉戸宿

tt        H.27年5月5日(火)

         晴れ 気温 24℃1
                          
         
栗橋駅から杉戸高野台駅 


 栗橋宿 ~ 幸手宿 ~ 杉戸宿


 今回は 栗橋駅から杉戸高野台駅まで歩きました。

 朝6時20分にひたちなか海浜鉄道 那珂湊駅を出発し

 勝田駅からJR水戸線・湘南ライナーを乗り継ぎ、栗橋駅へ向かいました。

 初夏の日差しを浴びながらの一日でした。


                   
       
 
 
那珂湊 6:20発 350円 ひたちなか海浜鉄道
勝田 06:34着
06:40発 1,663円 JR水戸線
小山 08:21着
08:25発 JR湘南ライナー
栗橋 8:46着

JR線はIC料金
  
 
  栗橋駅から杉戸高野台駅まで
20,833歩  12,5km  4時間15分

   内 日光街道は4時間05分  18,666歩  11,2Kmの行程でした


 

8時55分


















9時10分



















9時22分

 栗橋駅を出発

    


 前回の続き 県道60号号線「栗橋東三丁目交差点」から歩きはじめます。
 
  

   

 県道60号線から旧道へ入ります。

 

 入るとすぐに栗橋ハイツ集会場があり

 ここに「栗橋の一里塚」があったと思われます。

 

 国道125号線ガード下をくぐります。

 
  


9時29分















9時43分



 300mmほど進んだ突き当りに「会津見送り地蔵」の道標があります。

      


 右折し、国道4号線へ向かいます。

  


9時43分















9時48分










 国道4号線を右折し、すぐ旧道(側道)へおり

  


 新幹線のガードをくぐります。

 
 

















10時08分


 古い家並みを見ながら1.3kmほど進むと右側に

  

 「小右衛門の一里塚」があります。

   

説明文

久喜市指定文化財(史跡) 一里塚

 指定年月 平成4年7月30日
  所在地  久喜市小右衛門516

慶長9年(1604)、江戸幕府は、大久保長安に命じて東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の
五街道をはじめとして、主要街道に一里塚を築かせた。

江戸の日本橋を基点として、一里(約4キロメートル)毎に塚を築き、その上に榎を植えて道のりを表し、
伝馬制度に大きな役割を果たしたほか、旅人の休憩所にも利用された。

道中奉行が作成した「五街道分間延絵図」のうち、日光道中を描いた「日光道中分間延絵図」にも、
この一里塚が描かれている。

この塚は、幸手宿と栗橋宿の中間で小右衛門村にあったものである。
現在、塚の上には、昭和初期に付近から移築されたという弁財天堂が建てられている。
塚の高さは西側から約2メートル、東側(道路側)は約0.6メートで、塚の形態と当初の広さを残し、
当時の姿を偲ぶことができる。

                       平成25年3月21日 久喜市教育委員会




10時20分





























10時27分


 側道を進むと国道4号線へ入りますが、すぐに側道へおり

 

 カーブミラーのところを右折すると「雷電神社」があります。

 

 


10時42分







































10時56分

 雷電神社から道沿いに500mmほど進んだY字路に

 「日光街道道標」があります。

 
  
「日光道中の道票」
  日光道中と筑波道の分岐点に建てられたもので、
  正面には「右つくば道」左側面には「左日光道」と刻まれている。


 「日光街道道標」から600mmほで国道4号線に合流します。

 




10時57分































11時09分



 

 中川にかかる行幸(みゆき)橋を渡り、「明治天皇行幸記念碑」を左に見ながら

 



 国道4号線を進み、内国府間(うちごうま)交差点を

 右方向 「県道65号線(御成街道)」を宮代方面へ入ります。

  
 


11時25分

12時00分














































12時07分

 見どころたくさんの「幸手宿」に入るところでモスバーガーのお店で昼食休憩を済ませ

 明治天皇へ献上したというお菓子「塩がま」を石太菓子店さんでお土産に買い

 


 「幸手の一里塚」跡に着くと幸手の風情ある街並みが見られます。

     

 
幸手の一里塚
 国道4号線から「県道65号線(御成街道)」へ入り、
 石太菓子店
を右に見て、その先鍵の手左角に案内板だけあります。


 


12時18分

 中一丁目交差点右側の「議語家」が「本陣知久家跡」になります。

 

 
 近くにはたくさんの旧家が多く見れます。

 

 また伝統あるお祭りやアニメのキャラクターで街を活性化しているようです。

 




12時25分

 幸手駅を過ぎ、志手橋交差点の手前に神明神社あります。

 


 ここの山車小屋は「平成10年度宝くじ助成施設」と書いてありました。

 


12時29分

12時35分

































12時44分




 志手橋交差点を県道道65号線(御成街道)を道なりに進み

 東武日光線の踏切を渡ると

 

 御成街道と日光道中が分かれる「御成街道追分」碑あり、左折します。

 



12時50分

12時55分

















13時00分

 上高野小学校を過ぎると新しく開通した圏央道があり、

 幸手南公民館前には「上高野村道路元票」があります。

 


 東武日光線の踏切を渡り、国道4号線へ合流します。

 


13時15分

 国道4号線を進み幸手団地入口交差点で本日は終了します。

 

13時28分発の 杉戸高野台駅から帰宅しました。






まーねーちゃんのひとり言





                  

 前回、野木宿(野木駅)から栗橋宿(栗橋駅)まででしたので

 今回は「栗橋宿」から「幸手宿」を通り「杉戸宿」(杉戸高野台駅)まで歩きました。

 前回の続きで、栗橋宿(東3丁目交差点)からです。

 朝6時20分に那珂湊駅を湊線で出発し、JR水戸線、湘南ライナーを乗り継ぎ、8時46分に栗橋駅に着きました。

 国道4号線の側道には建築関係の家が多く発展性を感じ、

 幸手宿へ入ると古い家屋の保存、伝統あるお祭りの継承だけではなく、アニメのキャラクターを使って若い人も呼び込み

 街全体で活性化をはかっているように思われました。

 時代に合わせ形は変わるものです。

 古き良いものは守り、新しいものを取り入れること。

 その根幹を継承することが大事なのではないでしょうか。

 那珂湊でも湊線や国営ひたち海浜公園、お魚市場へたくさんの観光客の方が見えています。

 今朝も那珂湊駅でひたちなか海浜鉄道の吉田社長さんにお会いし、これから勝田駅でお客さまをご案内するとのこと、

 こういう積み重ねが大事なことだと改めて考えさせられた一日でした。




参照

ウィキペディアより

栗橋宿(くりはしじゅく)は、
江戸時代に整備され、栄えた宿場町の一つ。現在の埼玉県久喜市栗橋区域に相当する。

日光街道の江戸・日本橋から数えて7番目の宿場であるが、当宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、両宿合わせて一宿とする記述も有る。

この地は利根川の渡河地点にあたり、日光街道から江戸への出入りを監視する関所が置かれ、江戸の北方を守る要地であった。街道が整備される以前に町は無く、
日光街道は手前の幸手宿から北東に向かった栗橋村(後に元栗橋村に改称、現・茨城県猿島郡五霞町元栗橋)に渡船場があり、”房川渡し・栗橋”とよばれていた。
慶長年間に地元の池田鴨之助、並木五郎平の出願により、現在の栗橋地区となる上河辺新田が開墾された。
1616年(元和2年)に街道筋が付け替えられ、現在地に正式な宿駅として栗橋宿が成立した。

1843年(天保14年)当時の人口は1,741人、家数404軒、本陣1、脇本陣1、旅籠25軒との記録が残る。

なお、前述の通り栗橋宿と利根川対岸の中田宿は合宿の形態をとっており、荷物や人夫の継ぎ立てを行う問屋の業務は半月毎の交代制であった。
また、本陣を代々務めたのは栗橋宿の開宿に尽力した池田鴨之介から続いた池田家で、現在も本陣跡地に健在である。
その他の町並みも駅より比較的離れたところにあるためか旧家が所々に残り、旧宿場町の面影を感じさせる。



幸手宿(さってじゅく)は、
江戸時代に整備され、栄えた宿場町の一つ。現在の埼玉県幸手市中心部に相当する。

日光街道の江戸・日本橋から数えて6番目の宿場である。


現在の幸手市中部から北部にかけての旧街道筋付近にあたる。南から北に900メートル程度の範囲で広がっていた。

元々奥州に通じる渡しがあった場所として古くから栄え、日本武尊が東征に際して「薩手が島」(当時この近辺は海だったという伝説がある)に上陸、
中4丁目にある雷電神社に農業神を祀ったという記述が古書に残っている。鎌倉時代には鎌倉街道が通じ、軍事・交易上でも交通の要衝として栄え、
室町時代以降は一色氏の領地となり、現在の天神神社付近に陣屋が築かれていた。

江戸時代になると、一帯は江戸幕府直轄の天領となり、日光御成道との合流点として、さらに筑波道が分岐する宿場町として繁栄した。
なお、この頃に、それまで田宮の庄と呼ばれていた町の名前が幸手となった。1843年(天保14年)当時の人口は3,937人、家数962軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒であった。
両隣の杉戸宿や栗橋宿と比較すると、2倍以上の宿場規模を誇っており、純粋な宿場としては千住、宇都宮、陸奥白川、越ヶ谷に次ぐ大きさであった。

またこの時代、伊奈氏の手で利根川の付け替え工事が行われ、権現堂川、江戸川が整備され、新田開発による米作の増大と相まって、
これらの川を利用した江戸との間を結ぶ舟運が発展し、川沿いに作られた権現堂河岸には回船問屋が軒を連ねていた。

所属として古くには下総国葛飾郡に属していたが、万治年間より武蔵国桜井郷田宮の庄(武蔵国葛飾郡)に属するようになり、田宮町または薩手・幸手町と称されるようになった。
その後、元禄年間より幸手宿と称されるようになった。


杉戸宿(すぎとじゅく)は、
日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町の一つ。現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町中心部に相当する。

日光街道の江戸・日本橋から数えて5番目の宿場である。


古くから利根川(現・古利根川)の渡し場があり、日本武尊が東征を行った際にこの付近に上陸し、そこが杉の木が茂る港(水門)であったことから杉門と名付けられたとする伝説がある。

宿場自体は五街道の整備に伴い、1616年(元和2年)に近郊の郷村を集めて成立した。宿場は街道に沿って町並みを構成し、5と10のつく日には六斎市が開かれ、近郷商圏の中心地となっていた。
町中は新町・下町・中町・上宿に分かれ、それぞれに名主や問屋が置かれ、本陣・脇本陣はいずれも中町に置かれていた。 1843年(天保14年)の改めによると、
宿の往還は、長さ16町55間、道幅は5間、宿内家数365・人数1,663、本陣1・脇本陣2、旅籠屋46(大4・中7)であった。

現在の町並みは、都市化の影響をさほど受けていないためか旧家も比較的良く残り、旧宿場街の面影を感じさせる。




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